文・元いやしの村・村長
藤井敏男
誰でも気軽に来られて、心身ともに癒される場所を作りたい!
喜楽楽は2020年で20周年を迎えました。会員さんの中には「喜楽楽って何?」という方もいらっしゃるかもしれませんので、昔話をさせていただきます。
1996年、ケビンがスーツ姿で塩や怪しいグッズ(?)をカバンに入れて全国を回っていた頃です。その頃のケビンは本当に何でもありで、お酒もタバコもたしなみ、金沢会場でも毎回、飲めや歌えの大宴会でした。ここだけの話です(笑)。
そんなある日のことです。ケビンが毎日のように全国を回り、ヒーリングをしている中で、心身ともに疲れて病んでいる人があまりに多いことに気づき、「誰でも気軽に来られて、心身ともに癒されるような、そんな場所があればいいね」と言ったのがきっかけでした。その想いに賛同した金沢会場の仲間たちと「ぜひ、そんな場所を作ろう!」と盛り上がったのです。
それからはケビンが金沢に来るたびに具体的な内容を話し合い、「せっかくだから、全国のヒーリングの仲間にも声をかけよう!」と、手作りの『いやしの村だより』を作って全国の会場に送ることにしました。その内容は「いやしの場作り」のコンセプトや、ケビンと話し合ったことなどで、「共感してくれる人はこの指と~まれ!」でスタートしました。
最初は50部ぐらいから始めましたが、各地から「もっとほしい」と言われ、100部、200部と増えていきました。その頃は「ヒーリングの会」もなく、すべてボランティアで夜遅くまで原稿作成、印刷、折込み…と頑張っていましたが、これでは体力的にも金銭的にも続かないということでケビンと相談して会費制の「中西ヒーリングの会」を立ち上げました。「ヒーリングの会」は「いやしの場作り」から始まったものです。
そうして、みんなの夢を乗せた「いやしの場」作りがスタートしました。
「株式会社いやしの村」誕生
「いやしの村(喜楽楽)作りのコンセプト」
なぜ、いやしの村が必要なのか? それは、「心身ともに病んでいる人が多く、その原因は親子、職場などの人間関係、お金、さまざまなコンプレックス、飲食や生活の乱れなどがあるため」とケビンは言います。
その原因を一つでも癒すことができるように、「愛・喜びと自由の大調和」というテーマでいやしの村(喜楽楽)作りを進めることにしました。
そして、話はそこからさらに具体的になっていきます。
場所探し
自然が多く、視野が開けていること。ある程度の敷地面積があり、施設を段階的に増やしていくことができること。畑や庭が作れること。土地代が安いこと…など。欲張りすぎるほどの条件をみんなで出し合いました。
施設(建物)
体に優しい天然木を使い、大きな窓で開放感があること。セミナーがでできるような大きな部屋があること。
そこで問題になってくるのが土地や建物を購入する資金です。そして、その先の運営資金も必要になってきます。お金は一番頭の痛い問題ですが、これが解決しないと単なる夢物語になってしまいます。
寄付を募るなど、いろいろな案が出ましたが、最終的には資金を捻出するための会社を作ろう、ということになりました。そこで提案されたのが、体に優しい商品の開発と販売でした。 それが、「株式会社 いやしの村」の始まりです。
候補地はOリングテストで
いやしの村(喜楽楽)を建て、運営するための手段として、「株式会社いやしの村」が誕生しました。当初は私たち夫婦だけでスタートし、ケビンの推薦する商品を全国の仲間たちから注文をいただき、金沢の仲間たちで発送するといった本当に細々としたものでした。
でも、全国の仲間たちのおかげで徐々に注文も増え、手作りの「いやしの村だより」の編集・発送作業も忙しくなり、金沢の仲間たちの負担が増えてきたので、スタッフを一人、二人と増やしました。でも、ケビンの「良いものを買いやすい値段で販売しよう」というスタンスは変わらず、いやしの村の建設資金の捻出どころではなくなり、挫折しそうになったりもしました。
しかし、立ち上げの夢は捨てきれず、ケビンに実情を相談すると、『建設資金だけは全国の仲間に協力してもらおう。でも、決して強制はしないこと」という条件でお願いすることにしました。
その間に、土地探しも進めていました。各地からもいろいろな情報が寄せられ、中には「自分の土地を使ってほしい」といった嬉しいお声も多々寄せられ、何カ所か見せてもらいました。しかし、残念ながら私たちの欲張りな条件には少し足りない感じで、丁重にお断りさせてもらいました。
土地探しが困難を極めていたとき、ケビンが金沢に来られた際に目隠しをして、全国の地図の上でOリングをして候補地を決めようということになりました。すると、なんと! 石川県の能登半島にたどり着いたのです!
「一桁多いわ。150万円や」
ケビンとOリングをすると、 石川県の能登半島にたどり着き、さらに、能登半島の拡大地図でOリングをすると「門前町」を指したのです。藤井ママはとっさに以前に行ったことのある「まんだら村だ!」と叫び、実際に見に行ってみることにしました。
まんだら村は、門前町(現在は輪島市に合併)の活性化のために作られた別荘地で、小高い山の上にあり、海が一望できる場所でした。
私たちが、まんだら村のお世話人の星野さんに空いている区画を尋ねると、「2~3カ所空いている所がある」ということで見に行ってみると、敷地も小さく、景観もイマイチでした。ご縁がなかったのかな…と残念がっていると、星野さんの友人が買ったというある区画を見せてくれました。
そこは1千坪(3,000平方メートル)の大きさがあり、日本海が一望できるとても良い場所でした。恐る恐る、「この土地は分けてもらえるのか? 坪単価はいくらなのか?」と聞いてみると、「どうしても欲しいというなら持ち主に聞いてみる」と言ってくれました。ちなみに坪単価は1,500円だというので、「1千坪だと1,500万円ですか?」と言うと、「一桁多いわ。150万円や」と。これは是が非でも欲しいと思い、「何とか分けてもらえませんか?」と言うと、「3カ月たっても気が変わらなかったら交渉してあげる」と言われました。
そこで、さっそくケビンに電話をして、金沢に来た時にその土地を見てもらいました。
まんだら村に着いて車から降りると、ケビンが、突然スキップをして歩き出し、「ここはスゴイ! エンヤ(アイルランドの歌手)のケルトのエネルギーが満ちあふれた素晴らしい場所だよ!」と、大絶賛でした。
喜楽楽のイメージを膨らませる
ケルトのエネルギーだとケビンが絶賛した敷地を、すぐに仲介人の星野さんに「分けてほしい」とお願いにいきました。その後、門前町の開発企画課の課長さんに紹介され、正式に購入手続きをすることになりましたが、土地購入後は2年以内に建物を建てるという条件があるということを告げられました。
しかし、まだ建設資金のメドがついていない状況でしたので、「努力します」というあいまいな返事をして帰りました。2年以内と聞いて、内心、不安な気持ちになりましたが、でも乗りかかった船!当たって砕けるしかないと思い、ケビンや仲間に相談して、前に進むことにしました。
まずは自分たちのできることをやろうと、敷地の草刈りや木々の伐採など、開拓者になった気分で取りかかりました。もちろん、全国の仲間にも建設資金を集める協力をお願いして、喜楽楽誕生に向けて一歩ずつ動き出しました。
その間に建物の配置や間取り、敷地利用などをケビンや仲間たちと考え、イメージを膨らませていきました。
喜楽楽の敷地は1,000坪(3000平方メートル)もあり、大小さまざまな木々が数百本もありました。それを、慣れないチェーンソーを使って一定の長さに切り(再利用も考えて)、邪魔にならない場所に運ぶのはなかなか重労働でした。
でも、地元だけでなく、全国の仲間も応援に来てくれるようになり、近くのバンガローを借りて夢を語り合うのも楽しいひと時でした。
なんとかあと1年だけ待ってほしい
ケビンや仲間たちと何度も話し合って大筋の案が決まったので、地元の建設会社に設計と見積もりをお願いしました。でも、出てきた見積額を見てビックリ! とても2年間で集められる金額ではなかったのです。そこでみんなと相談して規模を縮小し、最初の見積もりの半分以下になるように設計をお願いしました。
建物全体には新建材を使わないで木材のみを使い、ホールは4間(72m)柱なしでワンフロアにするなど、何度も変更をお願いし、なんとか大筋のプランができました。
そこまでに2年近くかかりましたが、肝心の資金がまだ集まっていません。でも、門前町役場からは何度も「2年以内に完成してほしい」という催促がきます。そこで私は役場に出向き、設計図面を見せて具体的に進展していることをアピールして、なんとかあと1年だけ待ってもらえることになりました。
その後も時間のたつのは早く、残り半年となった頃、建設会社からも「本当に建てる気があるのか?」と何度も言われたので、正直に資金不足のことを話したら、不足分は無利子で月賦払いにしてもいいよと提案してくれました。さらに、地元の仲間に相談したところ、すぐに使う予定のない退職金を貸してくれることになり、なんとか3年以内に着工することができました。
基礎工事、そしてついに…
ようやく着工にこぎつけることができ、心ウキウキで契約を済ませました。その後、現地で地鎮祭を行い、基礎工事が始まりました。1999年11月の初めに夢にまで見た上棟の日が決まり、仲間たちとみんなで立ち会い、大工の棟梁が屋根のてっぺんでお祓いをしているのを感慨深く眺めていました。あとはもう、完成を待つだけです。
途中、「縁の下に竹炭を入れると湿気をとってくれて波動も良くなる」と言って、名古屋の鈴木さんがたくさんの竹炭を運んできてくれ、無償で埋設してくれました。そのおかげで20年たった今も縁の下はクモの巣ひとつない、キレイですっきりとした空間となっています。
2000年5月初め、念願の喜楽楽ができました。全国の仲間から、冷蔵庫や洗濯機、酵素玄米用の炊飯器や保温器、茶わんや布団などの生活用品をたくさん寄付していただいたので、足りないものを少し買い足すだけで済みました。本当に感謝しかありません。
そして2000年5月25日にいやしの村・喜楽楽の完成を披露する「開村式」が行われました。全国から200名ほどの会員さんと、門前町からは町長・助役さん、地元の議員さんまで参加してくださいました。食事も20名のボランティアスタッフの皆さんで作っていただき、夜遅くまで祝宴が続きました。本当にありがたく、夢のようなひと時でした。
20周年を迎えて
あっという間の20年、本当に「おかげさま」の一言です。
ケビンをはじめ、多くの仲間に支えられ共に築き上げた、みんなの「喜楽楽」。これまでも多くの方に「喜楽楽は心の支えになっています」と言っていただきました。ありがたいことです。
でも本当は形ではなく、人と人との心の繋がり、「和」が癒しなのだと思います。そんな「和」の精神が世界に広がればいいなと思っています。喜楽楽はそのシンボルのようなものなのかもしれません。
ぜひ、この喜楽楽の20周年という機会に、喜楽楽に遊びにきてください。そして、みんなで心の「和」を広げましょう!
元いやしの村・村長
藤井敏男